5月 庭の居住者たち

5月 庭の居住者たち

ようやくネムの木に葉が出始めた。やっと目覚めるお寝坊さんが芽吹く頃、我が家の庭ではエゴの木が満開を迎えている。どこから聞きつけたのかその最新口コミレストランへは連日色々なハチが集まって、大賑わい。どれだけその蜜が魅力的でおいしいのか確かめたくなるくらいの繁盛ぶりだ。そしてハチの訪問だけでなく、密かに開店前からの待機組も満開の花に混じって、あちらこちらに下がっている。ちまきのように綺麗に巻かれた待機組はオトシブミのゆりかごで、丁寧にくるりと巻かれた葉の奥には一つ黄色の小さな卵が産みつけらている。そのゆりかごの造形美はなかなかのもので、ちょっとした芸術作品のようだ。草陰に目をやれば、この時期小さな泡の塊が至る所に見受けられる。英語名で「かっこうのつば」と言うユーモラスな仲前がつけられているそれは、風が吹こうが雨が降ろうが溶ける事のない魔法のつばであり、他でもないアワフキムシのお家である。彼らの幼虫は植物のエキスを誰に邪魔される事もなくおいしくいただく為に、魔術師のごとく泡のドームをこしらえる。一方サヤエンドウは収穫最盛期を越え、地際から徐々にハモグリバエ集団住宅に飲み込まれつつある。葉の間に産みつけられた幼虫達が食べながら作る葉の上の筋模様は、もしかしたら前衛芸術家かと思わせるような、かなりの出来映えだ。そして、花が上がり始めたセロリの先端には呼んでもないのに、勝手にアブラムシが共同生活し、通いのアリが頻繁に訪れている。

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そのような訳で、すでにたくさんの招かれざる客が、家を造って子を産み、許可していないのに集団で住み着いては、頻繁にお客さんまで招いている。実際「いいですか?」と問われたら、もちろんお断りするので皆勝手に住み着いているのだが、彼らの巧妙に考えられたお家作りは、感心を通り越し美しさすら感じる。しかし、そうも言っていられないのが本心。日々その芸術品を破壊する庭の主である

5月 照葉樹の芽吹く頃

5月 照葉樹の芽吹く頃

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まだ寒い春先からがんばっていたパンジーやビオラたちがその役目を終えつつある頃、私の住む房総の山々では落ち着き始めた新緑に替わって照葉樹の芽吹きの季節となる。あちこちに現れる目の冷めるような黄緑色や銀白色の新芽を見る頃、きまってホームセンターへ苗を買いに出かける。この時期野菜やハーブ、季節の草花がところ狭しと並べられ、家族連れや老夫婦などたくさんの園芸好きや菜園狂が集結する。季節の草花売り場では、女性客の「この色素敵」「かわいい」という声が飛び交い、ハーブ売り場へ行くとご主人が、「そんなものどこへ植えるんだ」と文句を言う隣で、その助言にはいっさい耳をかさないご婦人が、「これは料理に使うの!」といくつもカゴへ入れている。果樹売り場では、親に連れて来られた子どもたちが、蝶を見つけて興奮し、野菜苗売り場では、菜園を持っているであろう初老の男性がかなり真剣にそして寡黙に苗とにらめっこをし、そして店員を捕まえては質問を繰り返す奥様で活気づいている。それにくらべて奥の樹木や山野草などの売り場では、比較的のんびりとすいていて根っからの庭好きらしい男性が腕を組み、時間をかけながら良い樹木選びに余念がない。私はと言えば、野菜売場で新しい品種とにらめっこし、草花売場で咲き乱れる花々の空想に浸り、その後山野草売場で癒され、流れっぱなしの野菜作りのDVDに釘付けになり、まだまだ大丈夫と種売場で手に取っては戻しを繰り返し、長居するつもりもなかった当初の予定はどこへやら、時計を見て慌てて会計の長い列に並ぶ客の一人である。

その後自宅で無事植え終えた野菜や草花苗を眺め、播種した種にはいつ芽吹くのかと問いかけながら、まだまだ茶色く広がる土の景色に、野菜や花達であふれかえる数ヶ月後を思い、何とも言えない充足感と達成感に包まれる。そして、今年も適期に間に合ったという満足感と安心感で自然と笑みがこぼれるのである。

5月 落ちない葉の正体

5月 落ちない葉の正体

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冬の間ずっと気になっていた葉っぱがある。完全に落葉しても、どんなに強い北風に吹かれようとも、その2枚の葉は落ちずにへばりついていたからだ。ずいぶん強靭な葉もあるものだと気にはなっていたものの、新緑も落ち着き、気持ちのよい木漏れ日を落とす頃になると、そのしぶとい茶色の存在などすっかり忘れていた。

ある天気の良い午後、ふと覗き込んだその木の中に見覚えのある茶色の葉を発見。久しぶりにその落ちない葉っぱの存在を思い出した。

しかし、よく見ると昨年の冬と少々様子が違うようだ。どんな過酷な状況下にあっても離れなかったその2枚の葉っぱは、少しほどけて内側の白い繭のような塊が現れていた。なるほど何かが卵を産んだ後、葉っぱで隠して木につけておいたのだと、数ヶ月ぶりにその謎が判明した。しかし、それの正体を知りたいという好奇心と確認したい衝動が抑えられなくなった。害虫だったら駆除しなければなどと言い訳しながらその葉をもぎ取り、繭の塊をそっと開いてみた。うっすら赤いつぶつぶが見え、これはすでに何かが巣立ってしまった後のカスなのかと思った瞬間、それらがもしゃもしゃ蠢いている事に気付いた。目を凝らして良く見ると1ミリにも満たないクモの子どもたちが開いた繭の隙間から小さな手足をばたつかせていた。蝶か蛾などの幼虫を想像していた私は随分違うその結果にすごく驚いたと同時に、彼らは害虫を退治してくれる益虫である事も思い出した。さらには、この小さな命を守ろうと必死に木から離れないようにと縛り付けた母グモの事を思ったら、急に申し訳なくなった。もしかしたら外の世界に出るにはまだ少し早すぎたかもしれない。急いでまた木の中の枝になんとか結びつけ、その後の彼らの無事を祈りつつ、繭をむりやりこじ開けた自分を責めた。ああクモさんよ、どうか無事巣立ってそして存分に益虫として働いておくれ。そこはあくまでも自分本位なのである。

5月 私の最強庭道具

5月 私の最強庭道具

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あちこちで田植え作業が忙しい。カエルが軽快に音楽を奏でれば、アメンボウは水の舞台に小さな波紋をいくつも作り、それはさながら降り始めの雨のよう。ツバメが目の前を通り過ぎたかと思うと、今度は電線にちょこんととまって、ああでもない、こうでもないとひとり楽しそうにおしゃべりをし、先日まで我が家のフェンス越しの藤に夢中になっていたマルハナバチは、ようやく満開のブルーベリーの所へ通ってくれるようになった。

そろそろ良い頃かと麦わら帽子を取り出し、畑庭へと出た。

この暖かさでさらにこんもりと大きく伸びて来たソラマメの周辺は、ちょっとした雑草パラダイスになっている。覗き込むとテントウ虫やヤブキリの幼虫、小さなクモやアリ、出始めのアブラムシが蠢いていた。テントウ虫君たちがあっという間にアブラムシを食べつくしてくれればと思いを馳せながら、目についたアブラムシをこれ以上をふやすまいとプチプチ潰す。

この時期どんな道具よりも大活躍するのが、私の右手の親指と人差し指。雑草抜きに、虫の捕殺に、芽かきに、花がら摘みにと何だってできる。以前は私の指の皮膚も柔らかい時代があり、花苗の入ったケースを持つのも痛くて大変だった。すっかり分厚くなった指を眺め、人間の順応能力に感心する。

作業始めは大抵手袋をしているものの手の感覚がよく分からず、結局素手で作業をするはめになる。人間の指先の感覚は繊細かつ器用、これほど万能な道具はないと手袋を外す瞬間いつも思う。

しかし、数年に渡りこき使ったわたしの親指と人差し指は、細かい切れ込みとそこへしみ込んだ茶色の土で、この時期特にレディーの指先とは思えぬ姿となる。ネイルケアーなどは夢のまた夢。電車のつり革を持つ時や、名刺交換の際に少々の恥ずかしさはあるが、我が畑庭では向かう所敵なし。私の指にかかれば、どんな細かい作業でも虫でもなんでもござれ。もうしばらくすると現れる、大きな芋虫や毛虫たちに会うまでは。

4月 園芸家の悩み

4月 園芸家の悩み

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夜中に雨戸を叩き付けるような大量の雨が降ったが朝にはやみ、窓をあけるとヤマボウシやモッコウバラの枝にたくさんの水の粒が、すがすがしい朝日を浴びてキラキラ光っていた。雨の重みでダランと頭を垂れたハナニラが、爽やかな風になびいてさらさらと揺れている。

雨の力は偉大だ。雨が降った翌日の庭の様子を見ると、いつもそう思う。いくらジョーロやホースで水をやっても、このようにはいかない。しっかりと潤った大地からにょきにょき伸び出した新芽たちは、目に見えるようないきおいで、グーンと伸びて来ている、そんな気がする。

我が家の畑庭では、2月に植えた種芋がそのクシュクシュの新芽をさらに伸ばし始め、間引きの頃合いだ。フェンスに絡まった藤は、今年も見事な花房をたくさんぶら下げちらほら花を咲かせ始めた。庭のあちこちから、播いた記憶のないコリアンダーやイラリアンパセリやシソが顔を出し、昨年株分けしたアスパラも唐突にその頭で土を押し分けて地上に現れた。この時期新しい小さな命達が一斉に芽を吹き、それは何とも言えない満たされた気持ちになる。そして、その播いた記憶のない小さな命達をせっせと掘り上げては小さなポットに植え付ける。

先日友人と、植える場所がなくなる原因について話した。「なぜ、いつも植える場所を探すのか?」理由は3つ。1つは株が大きくなりすぎ、株分けをする事により同じ物が増える為。2つ目に、播いた記憶のないこぼれ種を拾っては大きく育ててしまう為。そして最後の理由は、播いた記憶のある草花の間引きの度に、間引いた子供達をまた新たに小さなポットに植え付けてしまうからではないかという結論に達した。

増やしてはどこへ植えるかに悩み、もうそろそろ株分けだ、やれこぼれ種が発芽したなどと言ってはあてもなく増やし、それが根付けばその達成感に浸り、そしてまたそれをどこへ植えようかと悩む。永遠に続く場所探しは、園芸家の性であり、また楽しみのひとつでもある。

4月 衣香りに満つる

4月 衣香りに満つる

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終わりかけの菜の花がまだまだむせぶように香り、遠くを黄色の花畑にしている。その合間をぬうようにモンシロチョウが楽しそうに飛ぶのを見ていると微笑ましくもある反面、葉を食べつくす彼らの幼虫が頭をよぎり、少々複雑な気持ちになった。

先日お茶のレッスンに行った際、掛け軸にこのような言葉があった。「弄花香満衣(花を弄ずれば香り衣に満つる)」。茶事の掛け軸における禅語についてはさらに奥深い意味があるようだが、単純に花と戯れてその香りが洋服についてしまった事を思い浮かべ、とてもロマンチッックな気持ちになった。後日衣満つる事を夢見つつ山に散策に出かけると、薄紫のタチツボスミレに混じって、匂いすみれがあちこちで咲いていた。待ち遠しかった匂いすみれの登場に、心が高鳴った。

昨年の春はアレルギー症状により鼻づまりがひどかった為、その素敵な香りを何度嗅いでも分からず悔しい思いをした。さらには「美人の香り」という友人達の言葉にどんな美人のお姉さんの香りがするのだと、それを追いかける若い青年のように必死になってみたものの、結局その鼻づまりの前に私の野望は達成されなかったからだ。今年は春先にはきちんと薬も貰い準備は万全のはずだったが、何故だかその香りが分からない。地面に這いつくばるようにして、その花が鼻の穴に吸い込まれてしまうのではないかと思うくらい至近距離で嗅いでも分からない。嗅ぎたい香りは一向に分からないでいるのに、それに代わって嗅ぎたくもないツンとした鼻を突くようなサカキの花の香りが辺り一面に充満し、鼻から息を吸い込みすぎたせいか、少しくらくらしてきた。匂いすみれが「美人のお姉さん」だとするとサカキは「思春期の青年」とでも言おうか。その日は意に反して思春期の青年の香りに衣満ちて家路に着く事となった。

まだしばらく咲いているであろう匂いすみれに衣満つる事を夢見つつ、今年こそはリベンジを誓うのであった。

4月 春の期間限定

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気温が上がるだけでそわそわするのに、期間限定と聞けばすでに居ても立ってもいられなくなる。ここで言う期間限定とは、春のお買い得セールの事ではなく、ここだけ、この時期だけ、ある時間だけなどと言った、ある一定の短い期間だけに出会う事ができる花達の開花情報の事である。

きっと今がアマナの咲く頃だと友人に誘われて、とある田の畦まで散策に出かけた。アマナはユリ科アマナ属で、小さなチューリップのようなとてもかわいらしい花を咲かせる植物だ。そろそろ準備の始まった田んぼ周辺では、すでにカエルが鳴き始め春の様相だ。遠くからはっきりは見えないものの、目を凝らすと畦のあちこちからそのかわいい花達は恥ずかしそうに、でもしっかりとその茎を伸ばして太陽に向かって咲き誇っていた。この春先のわずか数ヶ月間で、葉を出し花を咲かせた後、周りの植物の生長と共に草の中に埋もれ、初夏には地上部分は跡形もなく消え、次の早春まで地下部分でひっそりと育つ。これらカタクリやニリンソウなども同様、春先限定で現れるその短い命を儚んで「スプリング・エフェメラル」と呼ぶそうだ。そう友人に聞いて、その言葉の響きといい、期間限定感といい、目の前に広がるアマナ達がさらに愛おしい存在になった。

自宅の庭では暖かくなったせいで、今まで小さく目立たなかったカタバミやハコベ、オランダミミナグサが急成長を遂げ繁茂していた。カタバミの広がりすぎてしまった地下茎をたどり、取りきれないだろうとなかば諦めながらも黙々と草取りに励む。こんもりと小さな山のように積まれた雑草達を眺めてふと、彼らこそエフェメラルであればいいのにと思った。だがしかし、春だけ現れた後、跡形もなく消えてしまうようなかわいい植物であれば、私にせっせと抜かれる事もなくもっと大事にされるであろうし、なによりも雑草という名のくくりには決して入らないだろう。私の雑草除去作業は続くのである。

4月 桜の散る頃に

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 先月から鳴き始めたウグイスの鳴き声も、だいぶ板についてきた。クロモジが目の覚めるような緑みがかった黄色の花を咲かせ、キブシの淡い黄色の花穂が、いよいよこれから始まる芽吹きの季節を予感させてくれる。

 房総へ移り住んで早4回目の春を迎えた。小さいながら念願の庭と畑を持つ事は、純粋に植物を愛で楽しむのはもちろんの事、自由に失敗が出来るという最大のメリットがここにある。徐々に生長しつつあるリーフレタスの苗に水をやり、庭を歩きながらふと

公園の桜を見上げた。

 以前造園会社に勤務している時によく聞かれた質問の一つに、植栽後の植物への給水方法があった。「何リットル?そして何日間隔であげますか?」的確な数字を求められる中、私の答えは「たっぷりとそして土が乾いたら」と言う、とても大雑把な返答であった。この時期と量の見極めは植物を育てている人にとっては、状況を見て判断している基本中の基本の事項であるが、これが未経験者にとっては非常に難しい問題となる。これらの事項を把握出来ずに多くの植物が息絶え、そして植物を育てる事が下手というレッテルを貼る事になるのだ。ともあれ当時、私の一言によって枯れた場合のクレームを考えるとなかなか断言出来ず、またこれが環境、気候など、様々な場所に対応できる唯一の回答だとも確信していた。

ある時、農家出身の先輩にインゲンの種まき時期を聞いた所、「桜の散る頃」という答えが返ってきた。その返答は私にとって少し驚きであった。非常に分かりやすく、そして程よく曖昧だったからだ。なるほど、時期は周りの植物が自然と教えてくれていた。先月から田や畦に咲き始めたタネツケバナも、種モミを水につける時期に咲く事からその名があるように、実は身近な自然がたくさんの情報を発信してくれている。桜の散る頃になるといつも決まってこれを思い出し、庭を歩きながら今年はどこにインゲンを播こうかと思案する。

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五嶋直美(ごとうなおみ)

1976年生まれ。武蔵野美術大学卒業後、造園会社に勤務し、多くの庭づくりに携わる。現在房総の片田舎を拠点にイラストレーター、ガーデンデザイナーとして活動。

3月 野良イモ?

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久しぶりに畑作業をした。少し掘り返すと、何を食べてそんなに大きく成長したのか聞きたくなるくらいの太いミミズや逃げ惑うハサミムシが先頭を切って現れる。さらに掘り返すと、昨年植えていたジャガイモの残りもぽろぽろと出て来た。雑草抜きを手伝いに来てくれた友人はイモが出て来たと少し嬉しそうだ。しかしこの残された子イモは食べれる代物ではない。残念がる友人に、ならばと畑に埋めておいた里芋を掘り出し、それを茹でて食べる事にした。その後丁度の母からの電話に、畑に埋めてあったイモを食べたと言う話をしたら、放置ジャガイモを食べたと勘違いした妹が電話の向こうで「野良芋食べたの?」とかなり慌てていた。「野良芋?」。実家のある北海道ではそう呼ぶらしい。始めて聞いた言葉に幼い頃近所を徘徊していた野良犬「五右衛門」を久しぶりに思い出した。メスなのに五右衛門。彼女はどこかで飼われているらしかったが、ほぼ放れていた為、野良犬五右衛門で通っていた。我が家の周辺エリアを取り仕切る頭領で、常に何匹かの雄犬を連れ立って歩いていたのを覚えている。なるほど野良化してしまったイモにそう名をつけたのかと妙に納得した。しかし、聞くと事はそんなに単純ではないらしい。連作を避ける為違う科の野菜を植え付けたとしても、野良イモが地中に生き残る事で、そこは連作状態になってしまうとの事。それでなくともジャガイモ、ナス、トマトとナス科野菜は夏野菜のメインのくせして3〜4年は違う野菜を植えなければならない。さっさとすべての野良イモを完全に取り除かなければならなかったが、頭の中では「五右衛門のような皆をまとめてくれる頭領イモがいれば集める苦労がないのに」とおかしな想像が巡っていた。野良イモ頭領の一声で子分集結。実際そんな凄いイモいるはずがない。きっとそれぞれが自由気ままに土のなかでぬくぬく芽だしを始めている事だろう。ああ、想像している場合ではなかったようである

前向きも大変

前向きも大変

草原一面に広がる花があったとして、そこは美しい花畑にもなりまた雑草だらけの土地にもなる。黄色く色付いた大きな樹木がはらはらと葉を落とすのを見て、ある人はなんてきれいな光景だと感動しまたある人は掃除をしなければと面倒くさく思う。

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